〔雑記〕
〔読み物〕複数の写真家たちから学ぶ、写真とスタイル〜あなたは誰が好き?〜
のコメントで@くらげそんちょー(くらそん) から
なっしぃさんは、どんなジャンルの写真を極めたいって思ってますか?あるいはどんな写真が一番好き?
・・・って質問を頂きました。
どんなジャンルを極めたいか
〔訊かれた瞬間の私〕え・・・(なくない?)
「ジャンル」って
・ポートレート
・スナップ
・風景写真
・旅写真
・テーブルフォト
…etc
ジャンルと言えば様々だけども、「極める」ってハードル高っって思ってしまう私
(正直言うと)。
とりあえずイロイロやってみて、得意不得意があるのは知ったけど。(この一年camellで沢山のイベントに参加したり・企画したりでさらに知れた)
数年前まで「(正直言うと)」が出来なかった、自分に無頓着人間なのだけど。
たぶん私ってヤツは…
いつも何かを継続し続けていくこと、というのが苦手で、「しなければならない」になったとたんに嫌になる人です。
それでも続けているもの…を考えると、生活のための仕事や、生きていくための何かにつながっているようなもの…かなと。
自発的にし始めたこと、続けていること…を考えると…。
(今はしていないもの)
・思春期は散文詩を書いてイラスト付けてサークル誌つくっていた。
・読書の虫。
(続いてるっぽいもの)
・人へ情報をつなぐ、レファレンスサービス🔗(元職が司書だけに)
・とりあえず撮影
出来ることを思ってみる
人は、一生涯に一冊、本を書くことが出来ると聞いたことがあります。
わたしのこれまでの振り返りで考えると、個人的なうねりはあったものの、
社会的な大事件や災害に遭うこともなく、半世紀を生きて(…うげっ😫)きてしまっています。(3~5年の生活設計を繰り返しながら気が付けば…なんですよ)
やりたいこと、仕事柄身につけたこと、日々の中でやってきた小さなこと。
意図せずともそれらは、自分自身をかたち作るもの、になるんだろうな。
これを読んでいる一人一人にも、育ててきたスキル・積もってきた記憶・出会ってきた人との縁がそれぞれにあって、それは自分というオリジナルを生み出してく。
そのオリジナル(=作品)が一人一人に必ずあるってことで。
だとして、
「そんな自分をフィルターとして通って生まれていくものは」と考えると…。
・先日のTERASの事業所さん。その取り組みに感じることがありました。
話を伺いながら、場と人と物事を感じて撮影して、私を通してでてきたものが、このレポでした。
・益子の工房に訪問したとき、職人さんの真摯さを伝えたいと思うこともありました。ただ、アテンドなしに工房へは入り込めません。
・ファーストバースデーのイベント撮影、子育てに悩む母の、つかの間の憩いの時間を共有させて頂いたこと。そんな母の姿や想いを写真にしたいと思ったけど、状況が難しい。
状況チャンスに恵まれなければ、その状況を得られるようでなければ、伝えるのって難しいですね。
そういえば、
私、ドアノーの有名作「パリ市庁舎前のキス」には惹かれないくせに
「本橋成一とロベール・ドアノー 交差する物語」展のドアノーの作品に、どうしようもなく、伝わっていく感情の感覚に刺激を受けました。
撮影者というフィルターを通して伝えていく感じ…。
これは場に受け入れられるようになって行った彼らだから産まれて行くもの。
場で撮り手が人として感じているからなのだと思います。
蜷川実花さんの作品も、極彩色の作品は苦手で(「さくらん」「ヘルタースケルター」のころは嫌いに入ります)、うつくしい日々 🔗 で、どうしようもなく惹かれたように、「自分を通して伝えていくこと」なのかもしれない。
写真教室で「組写真(伝えるスタイル)」として訓練したこと。
それは、派手さを求めるのではなく、瞬間的な映えを狙うのではなく、日常にずっと残っていくような写真を撮ること。撮ったものを相手に伝えること。
子供のころ読書の虫だったこと。
物語の中では時間を忘れて読みふけった時間。(いまは目が厳しい…老眼め…っ)
いまもつい・レファレンスサービスしちゃうような癖…。(情報の波を泳ぐのは相変わらず好きです)
「ひとの中にある物語を伝えてく写真」
もしかしたら出来るのかもしれない・・・?
現場伺うとしたら‥‥いやぁ…むずいなぁ💦場所も人も難しいなぁ…。
表現方法の上達研鑽も途中で止まっているし。
でもなんか、そんな方向性な気がします。
そして、その視点(テーマ)を抱えて撮っていけば、いままで毎年ルーティンで行っていた地元の記録写真でさえ、作品になる!(・・・のか、な?)
とは言っても、色々と手を出して遊んでみることは辞めないでおこうっと。